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エドワード1世 (イングランド王) : ミニ英和和英辞書
エドワード1世 (イングランド王)[えどわーど1せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

エドワード1世 (イングランド王) : ウィキペディア日本語版
エドワード1世 (イングランド王)[えどわーど1せい]

エドワード1世(, 1239年6月17日 - 1307年7月7日)は、プランタジネット朝イングランド王(在位1272年11月17日 - 1307年7月7日)。
ヘンリー3世の長男であり、1272年に父王の崩御で即位し、以降1307年の崩御までイングランド王として君臨した。内政面では法整備を進めたことや1295年代議制議会の要素が強いを招集したことなどが特筆される。外交は近隣諸国との戦争に明け暮れ、ウェールズスコットランドに侵攻して併合したり、アキテーヌを巡ってフランスと戦争するなどした。しかしスコットランド支配は激しい抵抗運動を招いて最終的には破綻し、フランスとの戦争はやがて百年戦争へと繋がっていく。
渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったため)および"Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。
== 概要 ==
1230年イングランド王ヘンリー3世の長男としてロンドンで生まれた。1254年にはフランスに対するけん制として、カスティーリャレオンフェルナンド3世の娘エリナーと結婚した(''→生い立ち'')。
1258年にで可決された王権を制約するオックスフォード条項をめぐってヘンリー3世やエドワードら王権側と第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールら改革派諸侯の対立が深まり、1264年に両者は第二次バロン戦争で衝突した。に敗れて一時父王とともに虜囚の身となったが、翌1265年に脱走に成功し、でレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻した(''→改革派諸侯との戦い'')。
内乱終結後には父王に代わって国政を主導。オックスフォード条項は否定したが、王権以上に貴族権力を抑制するウェストミンスター条項は認め、これを汲んだを制定した。1270年からは第8回十字軍に参加した(''→内乱終結後'')。
1272年にヘンリー3世の崩御により国王に即位した(''→国王に即位'')。内政面では法律家のブレーンを抱えてイングランドの法整備に努めた。とりわけ動産差押に制限を設けたことは中世的な自力救済の抑制に資した(''→法整備'')。また王室の封臣を増やす目的で1290年に制定されたは結果として封建制の崩壊を推進し、封建主義社会から議会制国家への移行を促すことになった(''→封建制の崩壊'')。他方1290年にはユダヤ人追放を実施している(''→ユダヤ人追放'')。
外交面では戦争に明け暮れた。1277年1282年から1284年にかけてはウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)ルウェリン・アプ・グリフィズが統治するウェールズに侵攻し、ルウェリンを敗死させて同国を併合した。後にウェールズ大公の地位を自らの皇太子エドワード(エドワード2世)に与え、以降この称号は英国皇太子に与えるのが伝統となった(''→ウェールズ侵攻'')。
つづいてスコットランドに狙いを定め、1291年には同国の王位継承争いに介入し、御しやすそうなジョン・ベイリャルを支持して彼を王位につけ、自らに臣従を誓わせた(''→スコットランド王位継承への介入'')。スコットランド国内でイングランドへの反発が高まり、1295年にはジョン・ベイリャルやスコットランド貴族たちが反旗を翻したが、1296年にスコットランド侵攻を行ってでスコットランド軍を撃破した。ベイリャルを廃位して王権を自らに譲渡させた(''→スコットランド侵攻'')。
フランスとの外交関係はパリ条約以降良好に推移していたが、1294年にフランス王フィリップ4世がエドワードの領有するアキテーヌの没収を宣言したため、フランスとも開戦するに至った(''→英仏戦争'')。
フランスやスコットランドとの戦争には膨大な戦費が必要だったことから、1295年に彼が招集した議会は、下級聖職者や州騎士、各都市の市民の代表などを含めた広範な社会階層の代表者を集めた議会となった。そのため代議制の性格が強い議会となり、後世の議会の模範となったとされ、「」と呼ばれる(''→模範議会'')。しかし高額の課税に反発は高まり、特に1297年フランドル出兵に際して恣意的課税を行おうとしたのを機に諸侯との対立が再燃した。その対立の中で諸侯や議会から国王の恣意的課税を制限するマグナカルタなど既存の法律の確認あるいは新規の立法を強要された。この諸侯との対立は崩御まで解消されることはなかった(''→諸侯との対立再燃'')。
スコットランドでは彼が総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンが過酷な統治を行っていたが、ウィリアム・ウォレスらの抵抗運動の激化を招いた。ウォレスをフォルカークの戦いで破り、捕らえて残虐刑で処刑することには成功したが、スコットランドの抵抗運動はますます激しくなった(''→ウィリアム・ウォレスとの戦い'')。つづいてエドワードに王位を否定されていたロバート・ブルースがスコットランド王ロバート1世に即位することで反旗を翻した。その追討のために出陣した際の1307年に崩御した。彼に代わって国王に即位したエドワード2世はロバート1世に敗れてスコットランドを失うこととなる(''→ロバート1世との戦いと崩御'')。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エドワード1世 (イングランド王)」の詳細全文を読む




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